コマツ・コーポレーション

HISTORYコマツの企業精神

酒田の出版文化の歴史

佐藤三郎元本間美術館館長

みちのく豆本

小松写真印刷が創業して90周年を迎えた。90年前といえば明治35年に当たる。創立した小松幸吉は東京で活版を修業した。当時の博文館、博進社、大日本印刷等で実際に活版印刷のすべてを身につけて酒田に帰り、そのころ実兄が活版屋を細々とやっていたのを引き継ぎ本町七丁目角で小松活版所を開いた。

刷りものことはじめ

 酒田での印刷物の歴史をみると、最も古いとみられる今日残っているものでは「山王祭傘鉾次第」という長巻の一枚刷りの木版印刷物でこれには天明8年(1788)4月中申日と年号が入っているので元禄2年芭蕉来遊から100年後である、この年、日和山に芭蕉句碑「温海山や」の碑が建てられた年である。この年の秋に俳諧「夕涼み」という俳書が大和屋久蔵版として一冊出版されているのが、現存している。山王祭の一枚ものは稲荷小路若狭屋権太郎の名で出版されているが、ともかく、200年前にすでに出版されていたことがわかる。
 その後、俳書類は見えるが上方、つまり京大坂方面に依頼して出版されたものが多く、地方出版ではほとんど地元出版というのは少なかった。
 幕末になって本町一丁目五十嵐屋仁左衛門という店から「酒田十景」が「酒田みやげ」として浮世絵の10枚ものが出版されているが、これは酒田の画家五十嵐雲嶺に下絵を描かせた版画で当時みやげ品としてどのくらい販売したものか、その版木10枚は本間美術館に所蔵されている。近年この版木によって再版された。

初代│小松幸吉

初代│小松幸吉

二代目│小松宏介

二代目│小松宏介

酒田市本町七丁目にあった小松活版所と従業員

酒田市本町七丁目にあった
小松活版所と従業員

本町時代の印刷現場

本町時代の印刷現場

新聞の発行

 明治に入ると7年に先ず新聞が発行された。これは「出羽新聞」という活字印刷の最初のものであったが発行後間もなく弾圧によって廃刊となった。これは例のワッパ一揆によるものであった。しかし、これを期に活字文化がこの地方に定着した。14年に「両羽新聞」が発行され、16年に「両羽日日新聞」が発刊し「庄内新聞」と改題し消長が激しく定着しなかった。酒田港は米産地であり、酒田の米相場が全国に注目されたところから米の値段を中心とする物価新聞が発行されていた。
 やがてそれらを統合して、23年「酒田新聞」が地方の地主らの政治結社「有恒会」の機関紙として定着し終戦まで続いていた。
 この間、新聞社から「江北雑誌」「花月叢誌」「袖の浦集」「荘内文学」「花月集」「新庄内」といった文芸誌が片手間に発行されたがいずれも永続きはしなかった。
 新聞社を中心に出版文化が開花したことは確かであり、更にページ数のある出版の需要に応じて印刷所も出現した。
 このころになると内町に土門活版所、浜町に竹内印刷所が開業していた。

小松活版所の創業

 やがて、明治35年本町七丁目(現中町三丁目)に小松活版所が創業し、当時本町通りの突き当たりにあった酒田米穀取引所は米商人の出入りの激しい所で本町七丁目は米の仲買人、相場師のメッカとなって賑わっていた。小松活版所もそうした人びとのたまり場となっていた。
 小松活版所が最も信頼を得ていた印刷物は米穀取引所で発行する「米券」であった。これは米の倉荷証券でこの券は全国どこでも通用する現金同様に扱われていたので、これを一手に印刷する小松活版所の信用も大きく、従ってその他の印刷物も多く扱われていた。
 まだこのころはカラー印刷は活版ではできなかった。上の山(現中町一丁目)に長坂石版屋が多色刷の石版印刷をやっていた。ポスターや本の色刷表紙などは石版との分業で出版されていた。
 明治39年に青山堂書店の発行で「新希望」という総合雑誌が刊行された。これの編集に当たったのが後に数学の博士になった小倉金之助であった。今見ても内容の豊富なまとまった雑誌で期待されたが、これ一冊だけで2号までは続かなかった。次に「出羽お伽噺」という少年読みもののシリーズものが同じく青山堂の発行で出版された。第1号が「清河八郎」、2号が「十五里原合戦」で以下つづく予定だったが、これも2巻で終わっている。著者は当時酒田高等女学校の国漢の先生だった成沢直太郎先生が全部ルビ付(仮名ふり)で子供にも読めるように歴史物語として出版された。
 これらの表紙はすべて石版刷で本文は小松印刷で印刷製本して発刊されたが何部くらい出たものであろうか、今日いくらも現存していない。

文芸誌の台頭

 明治39年11月に創刊された文芸雑誌「木鐸」は酒田で発行された月刊誌としては最も永く続いた雑誌で、大正6年10月まで11年間100号以上に亘っているが、これは竹内活版所の印刷でスポンサーは当時本間家に次ぐ大地主伊藤家だったのでつづいたのであった。
 この「木鐸」ではさまざまな話題をよんでいる。鶴岡の笹原嘲風(権次郎)が日本で初めてマルクスの「資本論」を発表したり、斎藤恵太郎(酒田新聞記者)が無政府主義の論文を載せて発禁騒ぎを起こしたりした。
 その後、大正12年8月文芸月刊誌「群像」が発刊され、昭和2年までつづいた。これもスポンサーは米穀商荒木家であった。これが酒田の文芸復興期となって、詩集、句集の単行本が次々と発行されるようになり、昭和初期を迎え、昭和10年同人雑誌「骨の木」が佐藤十弥、鈴木泰助、藤井英治、俊治兄弟、鶴岡の梅木米吉、佐藤三郎、四郎兄弟ら7人の同人で最初の1年は月刊、翌11年から隔月刊で年六冊18年までつづいたが、戦争が激化するに及んで廃刊した。
 この「骨の木」は特種の用紙、 上質の柾紙で発行し中央の名士の寄稿もあって高く評価された。この印刷に当たっては小松印刷の紙価を高め、それだけに印刷には採算抜きの苦労と努力を払い印刷文化の高揚に当たった。

稀覯本と職人

 骨の木社から発行された佐藤十弥詩集「かられらる物語」、鈴木泰助句集「青句集」、佐藤四郎句集「鳶」はいずれも十弥の装幀になるもので現在も珍本として市価が高く、この印刷製本に当たった高橋秀雄さんは献身的に十弥の注文に応じ完璧な事を果たしてくれた。
 その後に出版された十弥詩集「つぶらなるもの」は円型の本で他に類のないものであり、句集「●鼎嶺」(アテネ)は一枚一枚透かし入りの越前紙を用い秋田杉の板を表紙と裏に使った稀覯本であるが、これも小松印刷の技術を惜しみなく発揮した作品であった。

佐藤十弥句集句集

佐藤十弥句集句集「●鼎嶺」(アテネ)。秋田杉の
柾目(斎藤如才作)を使用した表紙裏に書かれた十弥のサイン

 佐藤十弥は稀にみる特異なデザイナーで、妥協を許さぬ芸術家といえる存在だが、その注文を忠実に守り納得のゆくまで応じて仕事をしたのは小松印刷であり、職人としてなしとげたのは高橋秀雄さんであった。
 昭和32年からつづいた「みちのく豆本」も今日100号を越しているが(平成7年に150冊をもって終刊)、晩年まで一貫して佐藤十弥の選択、装幀によるもので酒田市の出版文化の誉れ高いのは、小松印刷の印刷にかける努力と誇りによるものだといわなければならない。
 こうした経緯を経て着々と事業をのばし、近代設備を完備して今日の小松写真印刷があるのである。

季刊「柊」
小松写真印刷創業90周年
記念特集号(平成元年5月刊)より

小松写真印刷と「みちのく豆本」

佐藤公太朗みちのく豆本の会主催

みちのく豆本

 今年から90年遡ると20世紀の幕開け1900年になる。小松活版所は文明開化で象徴される明治の末年に開業した。大正デモクラシーと云われる時代を通って昭和へ、印刷と云う文化的職業に終始して地方の文運に貢献した。その経緯については別に書くことになっているので、印刷に係わる業績のうち「みちのく豆本」について述べることにする。

 高踏的文芸同人誌「骨の木」の伝統をひく「みちのく豆本」は昭和32年8月に創刊した。佐藤十弥、佐藤三郎と「骨の木」の旧同人が相寄り、期せずして三佐藤が主唱者となって始めたのは単に偶然と云うだけでなく何か因縁と云ったものが感じられる。その豆本が延々30年以上も続いたのは、装幀を引受けて殆んど全冊を手がけ、形は小さいが堂々単行本に匹敵する出来栄えを示した十弥さんに負うところが絶大である。十弥さん無くして豆本は無かったと云っていい。55年5月十弥さんの急逝でその立役者を失った豆本が気息庵々今日まで歩み続けて来たのは、十弥さんの余沢と云うものである。その「みちのく豆本」を語ることは、ひいて小松活版所の印刷技術の消長を語ることになると思われるので、豆本の一冊一冊についての思い出を併せて回顧したい。
 第1冊「河村瑞賢考」で発足したが活版印刷からオフセットに移る頃で、活字で組んで刷ったものを写真で縮小して豆本の大きさに合わせ、それをオフセットにすると云うややこしい手順を踏んだ。第6冊「むかしむかしあったけど」は活字に長体をかけて長めにしたし「ソ連の旅」では平体にした。平体だと文字が大きめに見える。それをレンズで調節したので随分苦労したと現場の担当者であった高橋秀雄さんは語って呉れた。

佐藤十弥句集

 「元祖豆本」とか「風流豆本」を参考にしたが印刷する方も始めての仕事だし、活字の大きさも第1冊が7.5ポ、第2冊が8ポで第3冊「かられらる物語」は元版の本を縮写したせいもあるが7ポと云う細字になっている。
 極小豆本は拡大鏡でなければ読めぬ位小さい活字だがお互老眼鏡が必要な年齢になってあまり小さい文字では読み辛いと云うことから現行の13級(9ポ)の活字に落着いた。
 表紙は2色刷を立て前にして十弥さんが苦心したが「庄内の昆虫」「庄内石油譚」「庄内地方の生物」等は3色使っている。第5冊「酒田来遊文人考」が3色刷りなのは明治篇を刷り落したので、追い刷りすることになり、それなら朱色でと云う予期せぬ3色刷りが出来た訳。そしてこの表紙、明治篇の朱字が入ったことでグンと見事になった。
 本文印刷が写植に変ったのは34年からで、写植と云うのはジカにオフセットで印刷することを謂う。現在では電算写植となって技術の進歩に驚かされる。

佐藤十弥詩集

 「夢二と酒田」「出羽路の夢二」の表紙は多色刷りと云うのだが、「鳥海山の花」「露船漂着」はカラー印刷にした。印刷費がかなり違うがいいものを作ろうと云う私たちの主張で採算を度外視した。
 十弥さんの装幀は「走馬燈」までで85冊、「飽海の板碑」から同人の合議で装幀をやることにした。「蒼茫の海」はまあまあの出来だったが、会員からの指摘もあったように十弥調が失われたのは惜しい限りだった。一番気にしているのが「大学老詩生」で、これは亀山巌大人を煩わすべきだったと今にして後悔している。「酒田凧」「窓」は及第点がつけられると思っているし「庄内のキリシタン」「川柳集」「歩道橋」は著者の意向に添ったもので装画が息女の絵であり妻女の絵を使ったりした。そのどちらも成功している。「歌集おと」はアンカットにした。大正末年から昭和の初めにかけてフランス装と称してこのアンカットが詩集、歌集だけでなく小説にまで及んで流行した。新刊の本をペーパーナイフで頁を切り乍ら読む愉しさは文学青年だった当時の私の胸を躍らせた。豆本を作り始めてから一遍このアンカット本を作りたいと思い続けて来たが80冊目でやっと実現を見た。帙こしらえでそれに菓子楊子を添えてペーパーナイフに擬したつもりだったのに、羊羹を食べ乍ら読むようにとの心遣いが有難かったと見当違いの賛辞を貰っては苦笑するより無かった。
 造本も装幀のうちで、紐の中とぢ、背角並製本、厚表紙上製本と色々に変えて試みた。和本綴それに夢二画帖「象潟行」は折本にした。
 中とぢの紐も川柳集「零才の微笑」は三味線の糸を使ったし「庄内釣話」では釣糸を用いた。製本所も一応書きとめて置くべきであろう。最初時田製本を煩わしていたのが鶴岡の杉山製本に変り、名人肌のご主人と根くらべをやったりした揚句、53冊「生命の認識」から現在の雅製本に落着いた。製本も現在殆んど機械でやるようになったが豆本は昔乍らの手仕事なので、造本には苦労する。
 小松印刷は活版所の時代から地方文芸誌には一貫して協力して呉れた。自費出版で出した単行本についても同様で、豆本の会になってからでも十弥さんの「●鼎嶺」「円らなるもの」「髪譜」と特種な本を手がけた。「●鼎嶺」は耳つき鳥の子の特漉紙の無綴本、杉板を表紙にした。「円らなるもの」は本邦唯一と自負した円形本、綴じ方に些か難点があったけれど、これは自慢していい刊行本だ。山岸龍太郎さんの「夢二みちのく」も十弥さん会心の装本、この外20冊になんなんとする単行本も小松印刷の良心的な印刷技術に支えられて上梓された。大正時代からのつき合いを思い返すと小松印刷は大きくなり過ぎた

季刊「柊」
小松写真印刷創業90周年
記念特集号(平成元年5月刊)より